「ここは本当に駅のホームなんだろうか?」……南阿蘇鉄道「長陽(ちょうよう)駅」のホームには、手作りの椅子やテーブルがあり、地域の人たちが電車に乗るでもなく、お茶をしながら世間話をしたり、子どもを遊ばせたり、まるで自分の家の縁側にでもいるようにくつろいでいた。
今回お話を伺った久永さんは、そんな地域の人たちや観光客に2006年の開業から18年間、憩いの場を提供している駅舎カフェ「久永屋」(記事はこちら)の店長であり、親しみのある朗らかな人柄で場の雰囲気を和ませてくれる、長陽駅の管理駅長でもある。
長陽駅は駅舎でありながら、プライベート空間のような居心地の良さを感じさせてくれる場所。そんな駅は日本中を見渡してもそうは見られない。そのような駅舎はどのようにして出来上がり、なぜ今も愛され続けているのか。
久永さん同様、南阿蘇への愛に溢れたカフェスタッフの上田さんにもお話を伺う中で、シビックプライドを育む場のあり方が見えてきた。
※文中敬称略
-
-
久永 操 (ひさなが そう)さん「久永屋」 南阿蘇鉄道 長陽駅舎 本店 管理駅長佐賀県出身。アメリカで学生生活を過ごし、東京の企業勤務を経て、両親が移り住んでいた南阿蘇村に移住。南阿蘇鉄道「長陽駅」の目の前に広がる田園風景に惚れ込み2006年に駅舎カフェ「久永屋」を開業。カフェの営業は土日・祝日のみで、平日は近所の幼稚園などに看板メニューの「資本ケーキ(シフォンケーキ)」を届けるなどしている。
-
上田 達也 (うえだ たつや)さん「久永屋」 南阿蘇鉄道 長陽駅舎 本店 スタッフ南阿蘇村出身の大学生。小学生の頃から「長陽駅」を利用し、「久永屋」に遊びに来ていたことがきっかけでアルバイトスタッフになる。久永屋ではフレーバーコーヒーを入れる係を担当し、訪れる人たちとの会話を楽しんでいる。
-
南阿蘇の大自然への感謝の気持ちが地域活動のきっかけに
佐賀県で生まれ育った久永さんは、学生時代に自然豊かなシアトルやオレゴンの大学でプログラミングを学んだ。帰国後は東京のIT企業で働きだしたものの、心身ともに体調を崩し退職。そんな久永さんを救ってくれたのが、両親が移住していた南阿蘇の大自然だった。
久永:両親のいる南阿蘇に来てみたらものすごく気に入っちゃって、そのまま住み続けることになってしまいました。元々田舎育ちだからですかね、南阿蘇で生まれ育ったわけではないんですが、阿蘇のカルデラの中に帰ってくると、風が変わる感覚があって。自分のふるさとというか、居るべきところに戻ってきたなという感覚になりますね。
南阿蘇は、久永さんにとって、都会で傷ついた心と体を救ってくれた恩人のようなもの。
その感謝の気持ちがその後の久永さんの活動の源泉になっているようだ。
長陽駅との出会いが駆り立てた、地域の人たちが集まるカフェを作りたいという思い
南阿蘇に移住し、仕事を探し始めた頃、中松駅で蕎麦屋を営んでいた同級生の父親のもとで蕎麦打ち修行をするも断念。子どもの頃から作るのが好きだったケーキを提供する店をやりたいという思いに駆られていった久永さんは、師匠だった蕎麦屋の主人の勧めもあって他の無人駅を見て回った末に、目の前に田園風景が広がる長陽駅と出会い一目惚れしてしまう。しかし、若者でよそ者だった久永さんが、村役場に「貸してほしい」と直談判してもなかなか貸してもらえず、借りることができるまでに1年かかったそうだ。
久永:最初はもう相手にもしてくれませんでした。だって25、6歳の若者で、どこから来たのかもわからん男が「駅を貸してください」って言っても普通は貸さないじゃないですか。
半年ぐらい何度も出向いているうちに、やっと村役場の課長さんが話を聞いてくれるようになったんです。「ここでカフェをやりたい。地域の人たちが集まれる場所にしたい」という思いをくんでくれたんです。企画書にして提出する必要があるということで、一緒に企画書づくりを手伝ってくれました。そしてコンペの末、私のカフェ案が選ばれました。1年間長かったような感じだけど、村の人たちと仲良くなれたり、地元の人たちと交流できたので良かったなと思います。
久永屋は地域の人たちの愛着によって育まれた、地域の人たちの居場所
やっとの思いでカフェの開業を許可されたものの、駅舎は老朽化でボロボロの状態。改装する資金がなかったため、カフェをオープンするまでにさらに半年かかった。しかしそれが、久永さんが地域の人たちとの関係性を築き、久永屋が地域の人たちの居場所になることにつながった。
久永:当時の長陽駅は、ガラスとかも割れていて、壁や天井も石膏ボードがむき出しの状態だったんですよ。せっかく雰囲気のいい駅だから、何とか元に戻したかったんです。銀行に融資をしてもらおうと考えたのですが、蕎麦屋の主人に「絶対に借りるな!自分でコツコツやったほうがいい。俺が一緒に行商(訪問販売)に連れていってやるから」と言われて、とりあえずケーキを焼ける場所だけは先に作って、一緒に地域の人たちに売りに回りました。
久永さんはケーキの売上を元手にペンキや床材などを買い、自分で改装作業を進めていった。この改装費用の元手となったケーキが、カフェの看板メニューの名前となるのだが、これについては、のちほど改めて触れたい。
久永さんがコツコツと改装作業をしていると、地元の人たちがその様子を見て手伝いに来てくれるようになったという。
久永:自分で改装をカンカンとやっていると、近くで働いている大工さんが手伝ってくれたり、建具屋さんが来て「俺がこれ作ってあげるよ」と言って柱を作ってくれたり、壁を塗ったりしてくれるようになったんです。そういうことを半年ぐらいのんびりやってたら、どんどん輪が広がって、仲間が増えて……時間がかかったけれども、今考えてみれば本当にいい時間だったなと思います。
若者が始めた場づくりに地域の人たちが次々と関わっていくうちに、自分たちの場所だという意識と愛着が広がっていった。それが、久永屋が今も地域の人たちに育まれている理由でもある。
久永:大工さん自身も、改装の手伝いに何度も来てくれるうちに愛着がわいてくるんですよね。この駅はいろんな人の手が加わっているから、いろんな人たちが愛着を持っている。愛着があるから大事にしたいと思えるし、活気づいているんだと思います。
「資本ケーキ」は、地域の人たちへの思いが詰まった特別なアイテム
久永屋の看板メニューの「資本ケーキ」。この名前は、先に紹介したように、久永さんこだわりのシフォンケーキの売上が「久永屋を改装するための唯一の資本」だったことに由来している。なぜ久永さんはケーキ、中でもシフォンケーキにこだわったのだろうか。
久永:ケーキ作りが得意な母親の影響もありますが、アメリカにいた時に友達の誕生日にケーキを作ってあげたらみんな喜んでくれたんですよね。ケーキは人を楽しませ、喜んでもらえるものだっていうのがずっと僕の中にあったんです。
ケーキの中でも、シフォンケーキはいろんな素材と組み合わせてアレンジできるんです。南阿蘇には卵を作っている友達もいるし、地元の素材を使って、地域に根付いたものにするにはとってもいいんじゃないかという思いもありました。
地域の人たちに喜んでもらうことを大切にしたい久永さんの思いは素材に対するこだわりにも表れている。「資本ケーキ」は子どもからお年寄りまで、みんなが安心して食べられるように添加物や保存料は一切使わず、平飼い卵や無漂白小麦などを使い、手間暇かけて丁寧に作られている。そのため、日持ちが悪く、全国各地に大量に売ることはできない。
久永:添加物を入れれば多分1~2週間は日持ちするから、たくさん売って儲けることができると思いますけど、僕はそういうのは全く望んでいないんですよね。僕は肉や野菜のような生鮮食品と同じ感覚でケーキを作ってるんです。なかなか大変な面もあるけど、幸せってお金だけじゃないじゃないですか。地域や子どもたちとの交流とか、この雄大な景色の中で仕事ができるってことにものすごく価値があるなって僕は思っているんです。
久永:近所の保育園で提供するシフォンケーキも作ってますが、子どもって味を覚えていてくれるんですよね。18年もやっていると、当時の子どもが大きくなって今度は自分の子どもを連れて来てくれることもあります。
南阿蘇の子どもはみんな「資本ケーキ」を食べて大きくなってるんです。私が育てているみたいなもんだって勝手に思ってますよ(笑)。
久永さんの嬉しそうな笑顔に、地域や子どもたちへの愛情の深さや地域に貢献しているという誇りが感じられた。私が育てているという、“地域と関わり合う感覚”がシビックプライドにつながっているようだ。
熊本地震で気付かされた、駅を守るという責任感
2016年に発生した熊本地震で南阿蘇鉄道は甚大な被害を受けた。震災で列車が走れなくなった時に廃線になるんじゃないかと危機感を感じた久永さんたち地域関係者は、南阿蘇鉄道をなんとか復旧させようとアイデアを出し合ったそうだ。
久永:地震の影響でお客さんが来ないし、道も閉ざされて、大変なところもあったけど、かえって地域の人たちの結束が強くなったというか。みんなで交流するようになって、いい出会いがあって、そういうのも今となっては本当に良かったなと思います。
熊本地震の1か月後、「被害を受けた長陽駅でカフェが再開します」という新聞記事を見た東京の年配の方から手紙が届いた。そこに書かれた「駅を守ってくれて本当にありがとう」という言葉に、駅は自分だけのものではない、みんなの思いや色々な縁を駅が繋いでくれていると感じるようになったそうだ。
久永:駅というものは、列車が走り、そこに人の往来があり、車掌や運転手との交流があり、線路の安全を守る人がいるから成り立っている。鉄道はただ人を運んでいるのではなく、人の思いとか色々なものを運んでいるんだということに地震後に気付くようになりました。こういう場所は本当に残さなければいけない、僕がいなくても、誰かがちゃんと引き継いでいけるようにしなくてはと思います。
観光資源だけに頼らない。地域活性化のカギはやっぱり「人」なんだと思う
地域活性化に悩む自治体から、「南阿蘇は観光資源がたくさんあっていいですね」と羨ましがられるそうだが、久永さんは地域活性化のカギは「人」だと思っているという。
久永:南阿蘇が自然環境に恵まれているのは確かだけど、それだけではダメなんです。地域との関係性を深めるのは、やっぱり「人」なんですよね。「久永屋におかしな店長がいるからコーヒー一杯でも飲むついでに会ってこよう」でもいいんです。周りの人たちを惹きつけるような人が各地域に必要なんじゃないかなと思います。
久永さんもまさにそんな力を持つ「人」だ。実際、久永さんのキャラクターに惹かれる人は多い。
久永:いま着ているこのエプロンは、北九州のお客さんがわざわざ手作りして送ってくださったものなんです。もう歴代で5枚目ぐらいですかね。胸のところに、南鉄(南阿蘇鉄道)のロゴが刺繍されていて、私のイニシャルの「H」もちゃんとついていて、デザインがどんどん凝ったものに進化しています(笑)。そのお客さんが「操さんが着てくれるのを楽しみにしてる」って言ってくださるから、取材を受ける時は必ずこのエプロンを着ていますよ。雑誌とかに載った時も、その雑誌を送ってあげるとまたすごく喜んでくださるんです。
久永さんはこの取材の最中も、トロッコ列車がホームに到着すると、猫のかぶり物をかぶり、噴射器でシャボン玉を飛ばしながら乗客を楽しませていた。長陽駅を「人を楽しませる駅」にするために、自らエンターテイナーになって、地域の仲間や鉄道の車掌と共に訪れる人たちを全力で盛り上げる。そんな久永さんの姿からも、地域活性化のカギは人なのだということを実感することができた。
地域のことを思う子どもを育むことも久永屋の役割
久永さんには子どものファンが多い。地元とのつながりをつくる上で、子どもは大切なキーパーソンだという。
久永:ふるさとを1回出ることも大切だと思うんです。僕も、東京で大変な思いをしたから、ここの良さが余計に分かりますし。ただ、その後に、帰って来てくれる子たちがどれだけいるかっていうのがキーポイントかなと思います。
なぜなら、ふるさとの良さっていうのを、何かしら心の中に持ってくれていないと帰って来てくれないですからね。
久永屋は地域のことを思う子どもたちを育む役割を担っている。カフェのスタッフである上田(達也)さんも久永屋に育まれた子どものひとりだ。
久永:達也は小学2年生の頃から僕たちと一緒に忍者の恰好をしてトロッコ列車の観光客に飴を配っていました。今は大学生で、卒業したらどうなるのか楽しみだけど、コーヒーを淹れるのが好きだから、もしかしたら、ここを継いでくれるかもしれないですね(笑)。
駅のホームのテラス席で地元の人と親しげに話をしていた上田さんに、久永屋に対する思いを聞いてみた。
上田:小さい頃は、この場所を特別意識していたわけではなかったですね。ここは家から近いし、友達に連れられて遊びに来てた、という感じです。でも今は、自然なものを使った味づくりにこだわっている久永さんを信頼しています。
上田:ここは地元の方も多く訪れるので、僕は、「いらっしゃいませ」は使わないです。「いらっしゃいませ」という言葉は、お店とお客様っていう壁がある感じなので、「こんにちは」しか言わないんですよ。カフェってもちろん味も大事だけど、人に会いに来るんだなって、うちの店長を見てて思うし、自分に会いに来てくれる人が増えたらいいなと思います。ここは、僕のもう一つの家のように感じています。
久永さんが焼く「資本ケーキ」に合う、ヘーゼルナッツの香りがする美味しいフレーバーコーヒーを入れてくれる上田さんは、南阿蘇を離れることは考えていないそうだ。久永屋がその役割を担っているように、子どもの頃から地域との関係性を育むことが大切なのだと改めて感じさせられた。
久永さんが始めた場づくりに、地域の人たちが協力し、関与することによって久永屋は育まれていった。だからこそ、開業から18年経った今でも、常に色んな人たちがこの場所を訪れ、自分なりの過ごし方を楽しんでいる。そして、この場所に長く関わることが、子どもたちを始め、地域の人たちと南阿蘇との関係を育むことにつながっている。久永屋は地域の人たちに育てられている場所であり、地域の人たちを育てている場所でもあるのだ。この「育て合う関係」が続く限り、これからも地域の人たちに愛される場所であり続けることだろう。
編集後記
福岡県と熊本県の県境にある大牟田(おおむた)市で生まれた私は、子供の頃から何度も家族と一緒に阿蘇に遊びに行っていたが、今回、南阿蘇を愛してやまない久永さんや上田さんの話を伺い、単なる観光地として訪れていた頃とは違った阿蘇の魅力を感じることが出来た。また、久しぶりに都会の喧騒を離れ、目の前に広がる田園風景を眺めながら癒される時間を過ごせたことが、もともと田舎育ちの自分にとって心地よく、一瞬、仕事であることを忘れてしまうほどだった。
「ふるさとは作れます。作っちゃえばいいんです。自分が生まれたところにこだわる必要は無いんです。自分がふるさとだと思えば、それが心のふるさとになります。南阿蘇がふるさとのひとつの候補になってくれると嬉しいです」という久永さんの温かい言葉を受け、今度は取材の仕事ではなく、のんびりとトロッコ列車に乗って、「新たなふるさと」と感じるようになった南阿蘇を訪問したいと思う。
(取材・文:水本)